弔電を送ることができる電報。
それを申し込むことができるネット。
そんな便利な弔電 ネットの元祖、電信の歴史です。
昭和20年8月15日、第二次世界大戦の終結により、電信電話事業は再び文化の先駆としての活動が開始されました。
しかしながら、再起するには通信施設の受けた打撃は余りにも大きく、敗戦の事実を前に底知れぬ虚脱感におそわれていた全従業員を、呆然自失せしむるに十分なものがありました。
終戦時において、当局に残された回線はわずか380回線、1日の電報取扱通数は13万通(これは前年に比較して約5割の減少)というさんさんたるものでした。
回線の減少は敗戦による領土の喪失が一部の理由をなしていますが、大部分は戦災によるものです。
しかしながら、かすかながらも当局に一条の光明を与えたものは、局舎の健在でした。
しかもこのことはひとり当局にとどまらず、電信事業再建に最大の幸運であったといわねばなりません。
再建の第一歩は、連合軍の要請に基く通信の確保に始まりました。
20年8月23日、連合軍の日本進駐に伴う東京・厚木線の新設を初めとして、以後次々と連合軍司令部あるいはキャンプなどへの分室と回線が設置されました。
しかも一方においては、8月22日、戦時特例(電報取扱制限)の一部解除、10月20日、対米無線の開始12月11日、戦時特例の全面解除等と業務は次々に平時体制に切換えられていきました。
しかし、回線・機器の故障あるいは不良、更には要員事情の混迷などが折重って、最悪の事態を現出していきます。
このような事態を収拾するために「東京中電再建協議会」を設置(昭和20年12月4日)し、事態収拾に対応したのですが、当時の逼迫した情勢下にあっては、予期した成果を得るに至らなかったばかりでなく、更に苛酷な事態を招来していきます。
21年6月18日には、"業務運行難救済に関する件"として、職員に協力を促す通達が出されています。